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レポート:科学によって失ったものとは?(文化人類学原論)

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 このエッセイは2回生の終わりに「文化人類学原論」の授業のレポートとして書いたものです。本当は「ゼミの自分の発表の内容を原稿用紙10枚程度にまとめよ」ということだったのですが、随筆風に書いてしまいました。しかも内容の大半はゼミの内容と全然関係ない‥‥でも、成績は優で通っていました。

 内容は‥‥いま見ると懐かしい思い出ですね。でも、2回生の始めのころは本当に「もがいてもがいて何とか生きている」という状態でした。想像つきますか?つかないでしょうね。この辺の事情には別の要素もからんでいたのですが、それは極秘秘密です。というわけで、あしからず。

本文

 随筆風に書いてみました。必ずしも発表の内容を反映しているとはいえませんが、いかがなものでしょうか。

 

 ライアル・ワトソンは一風変わった科学者です。

 彼は、地球生命には何らかの超自然的な世界が存在するのではないかと考え、それを認める新しい科学を確立しようとしている人です。その著書「未知の贈物」(筑摩)の冒頭に、こんな一節があります。

 アリゾナ砂漠の片隅、メキシコとの国境の近くに、パパゴ族という音楽好きのインディアンが住んでいる。彼らは西洋の服を来て、アドービ煉瓦の家を造り、ほこりだらけの小型トラックで乾いたソノーラ(メキシコ北西部)を渡る。しかし、近代的な装いの下は昔のままである。大声をあげない、やさしい、詩的な人々である・・・  

 優秀な農場経営者でもビジネスマンでも、同時に作家や詩人であることによって価値を認められる。感情豊かであり、ユーモアと恥かしさをもち、母の愛情を表現できて、孤独な子供と一緒に泣くことができる人であることが要求される。  

 彼らの中に入っていくと、私は自分の不完全を憂う。平たい顔をした頑丈な褐色のパパゴ族の男たちには力強い、男っぽい存在感があり、彼らといると自分が無力に思えてくるものだ。しかし、彼らは明らかに女性的な要素と思われる慈悲と感受性を放射する。そのバランスを楽に保っている彼らがうらやましい。  

 真の個体化への鍵はこのバランスにある・・・

 「植田君は理屈で考えすぎる。心で感じることも大切なんだよ」

 まだ肌寒さの残る4月、神戸で震災ボランティアをしていたときに、大好きで尊敬もしていたある人から言われたことです。夜に、花見の席で宴会をやっていたときのことでした。

 続けてその人は言いました。「例えばとてもきれいな夕日を見ていて、ふと涙が出てしまったなんて事はある?」。そのときまでの自分には、ありませんでした。全くそんな事は、考えもしなかったことでした。自然の美しさに注意を向け始めたのは、それからです。ところが注意を向けてみると、これが美しい。鴨川の青々しい両岸の土手の上を桜が並んでいるさまなどは、心を空っぽにして見てみると、めがしらが熱くなるくらい美しいものでした。それにしても、なぜ今まで気づかなかったんだろう?

 続く2ヵ月間、それまでの価値観が急速に叩き壊されていきました。自分が今まで長い間考えてきたものは何だったのだろう?様々なことについて良い悪いの判断が全くできなくなり、ひどい欝状態におちいりました。生きた心地のしない毎日が繰り返され、窒息しそうな気分が続きました。知り合いから「今にも自殺しそうな顔をしているよ」と言われたこともありました。本当に、ひどい時期でした。

 以前の価値観からようやく新しい価値観が形をとり始めたのは、梅雨の気配のちかづく6月の終わり頃でした。特に何かひらめいたわけでもありませんでしたが、胸のつかえはゆっくりと降りていきました。最終的な結論は、単純なものでした。すなわち、「素直がいちばん良い」。

 うーん、なんて単純なんでしょう。でもそんな単純なことに、今まで気づかなかったのです。なぜなのでしょう?

 自分が文化人類学を勉強しようと思ったのには、こういったいきさつもありました。

 

 20世紀の終わりの現代、我々はかつては想像も出来なかったような世界に住んでいます。

 科学の進歩によって、人類はかつてない豊かさを手に入れました。ここ20年だけ見ても生活は大きく変わったと言えるでしょうし、ましてや100年、200年前と比べるとその変わりぶりは凄いものです。科学の生み出したものは、果てしなく挙げることが出来るでしょう。我々の生活の身の回りのもの全てが科学の成果といっても過言ではないと思います。かつては貴族の道楽であった科学の考え方は、今ではごく普通の人々にまである程度受け入れられるものとなっています。

 しかし逆に、科学の進歩によって失ってしまったものもあるかもしれません。

 科学は様々な現象を解明し飛躍的な技術の進歩をもたらしてきましたが、それと同時にや宗教といったものを否定してきました。科学は古い価値観を根拠のないものとして破壊してきました。しかし破壊した価値観の代わりとなるものを提案することはしませんでした。

 私達は文明によって物質的な豊かさを手に入れた代わりに、精神的な何かを失ったのかもしれません。本当にそうなのか、そうだとしたらその失ったものとは何なのか?

 文化人類学者の中にはまだ文明の入っていない社会に入り込んで、何年もかけてその社会を調査してくる人達がいます。そういったいわば未開の社会には、しかし我々の社会にはない価値観と文化があります。我々のように人工の造物に囲まれることなく、彼らは自然に囲まれて、そして様々な儀式を通して自然と関わりあおうとしています。その姿勢は科学の知識を知っている我々から見ると滑稽に見えるかもしれません。しかし我々自身に目を移してみると、世界と積極的に関わろうとしている人などどれくらいいるでしょう?

 自分は、文化人類学者の中には文明によって忘れてしまったものを探そうとしている人もいるのではないかと、勝手に思ったりします。自分自身はこの辺りのことはまだ良くわかりませんが、これから答えを探し求めていこうと思っています。

 

 エチオピアの南西部、ほとんど中央政府の立ち入らない奥地のサバンナに、ボディ族は住んでいます。

 ボディの人々は、様々な事物に彼らのやり方で意味を込め、それを色によって表現します。自分自身が一生になう色、戦争を開始するときに行う儀礼に割り当てる色、結婚や葬儀の儀式に込める色、いろいろな農耕儀礼に割り当てられる色などです。以下にそれらを細かく列挙してみましょう。

     
  1.  ボディの成員は全て、満1歳のときに名前とともに生涯担い、自己同一化をはかる色・模様をもちます。このような色・模様をボディ語でモラレと呼びますが、モラレは個人が担う色・模様ばかりではなく、青春を迎える頃に入手するそれと同じ毛色を持ったウシのこともさします。ボディの人々は、こうした特定の毛色のウシ、特に雄の子ウシを入手し、立派に育てていくことが、彼らの青春の生きがいになっています。若者はその雄ウシをやがて去勢し、自分のことをその去勢牛の名前で呼んでもらうことに無常の誇りを見いだすのです。    

     

  2.  ボディ社会には年齢組と社会組というものがあり、彼らの社会組織の一つの大きな基盤となっています。調査の時点では7つの年齢組が存在し、それぞれがその組を象徴する特定の毛色を担っています。その年齢集団の中でとりわけ信頼のあつい人のモラレである去勢牛が選択され、その毛色がその年齢組のアイデンティティとなるのです。    

     世代組もそれぞれの世代組を表象する動物がいて、その動物の毛色が世代組を表す色・模様となります。その世代組の首長の就任時にその世代組を表象する毛色を持った種ウシか雄子ウシを犠牲にします。    

     

  3.  首長を中心とする地域社会には、その地域社会を象徴する旗があります。それは、それぞれの首長の担うモラレと同じ色・模様となっています。この旗は、その地域社会の繁栄の象徴であると同時に、近隣の敵との戦いの際に携えて、その旗を中央において作戦会議を行うのです。    

     

  4.  首長は、一定の就任儀礼をへて正式な地位につくことになります。その一連の儀礼において犠牲にされるウシの数は10頭に達しますが、何頭か決まった毛色のウシがその中に含められます。    

     

  5.  ボディの人々は、周辺民族との戦いを、これまで頻繁に繰り返してきましたが、社会をあげての組織的な戦争の際には、攻撃を開始する前に敵によって決まっている特定の毛色を持ったウシを犠牲にします。    

     

  6.  ボディ社会では、結婚は2つの儀礼をへて成就されます。このいずれの儀礼においても、家畜が犠牲にされます。二三ヵ月から数カ月の期間をへて、新たな結婚の儀礼がとりおこなわれます。これによって、妻は正式に夫の屋敷に来て同居をはじめます。    

     

  7.  ボディの人々は、人間が病気になったときばかりではなく、自分のアイデンティティの対象であるモラレのウシが病気になったときにも、ある毛色のウシを犠牲にしてその回復を祈願します。精神病やてんかんの症状のあるときには、通常の病気とは異なった毛色のウシを犠牲にします。    

     

  8.  子供を持った年配の人が死ぬと、主に3種類のウシを殺します。埋葬後ある期間たつと、またウシが殺されます。遺族がそれぞれにウシをだし、死者の霊に捧げます。年老いて、子孫をたくさん持てば持つほど、そのウシの数は多くなります。このウシの毛色は特に決まっていません。    

     

  9.  ボディの人々は、経済的にも精神的にも家畜に依存しているばかりではなく、焼畑を営むことによってモロコシやトウモロコシを栽培し、彼らの自給源としています。この焼畑の作業に伴う儀礼と雨乞い儀礼の際に、特定の毛色を持った家畜を犠牲にするのです。それらは、(1)休閑林の伐採儀礼、(2)種まき儀礼、そして(3)雨乞い儀礼です。    

     また、種まきが終わって2ヵ月あまりたち、除草が行われるようになる頃、(4)虫送りの儀礼が行われます。そして、収穫が近くなると、(5)鳥獣の追い払い儀礼が行われます。    

     

  10.  特定のある2つの土地に移動したときには、特定の毛色のウシを殺して儀礼を行います。その後初めて、その地の水を飲み、放牧集落の門を構えることが出来のです。    

     

  11.  ボディのウシは、たまにライオンに襲われるときがあります。そんなとき、彼らはライオンの足跡をどこまでも追い求め、仕留めます。ライオンを殺すと、その皮をはぎ取り、歌いながら帰路につきます。集落に近付くと、既婚女性たちが出迎え、灰をふりかけながら、勇者を迎えます。家にたどり着くと、ライオンとよく似た毛色のウシの頚静脈から採血し、その血を自分の身体にぬります。    

     

  12.  ボディには、キリンカブルという大きな獣がいるといわれています。空想の獣で現実にいるわけはないはずなのですが、その怪獣を実際に見たという人が出てくることがあります。このときも、特定の毛色の雄子ウシを犠牲にします。    

     

  13.  通常の儀礼で犠牲にしてはならない家畜の毛色というのも決まっています。

 ボディのこのような色に関わる生活文化を耳にしたとしても、私たちは「ふうん」と聞き流してしまうでしょう。しかしよくよく考えてみると、ボディの人達はこういったことを大真面目にやっているのです。たとえ私たちに取っては意味のないばかばかしいことに思えても、彼らにとってはそれが意味ある現実のことなのです。彼らにとっての世界とは様々な儀礼を通して関わりあう対象であり、自分のアイデンティティとは生涯担うモラレと呼ばれる色・模様であり、そしていつも身の回りに広がっているものは人によって手の加えられていない、ありのままの自然なのです。

       私たちは積極的に世界と関わろうとしているでしょうか?  

     私たちは自分のアイデンティティを持っているでしょうか?  

     私たちはありのままの自然を心の中に受け入れているでしょうか?

 

 科学は何か大切なものを置き忘れてきてしまったのかもしれません。

 でも、それはもしかしたらまだ取りに戻れるものかもしれません。