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レポート:利他行動について、我々はなぜ環境保護をためらうのか?

コメント

 このレポートは時間がかかりました。本当に長いことかかりました。20時間以上はかかっています。それだけに提出した時は気分が良かったですね。

 実は、このレポートは英語の授業のレポートでした。だから、日本語の方は下書きで、英語の方が清書です。細かくチェックはしていませんが、もしかしたら日本語の方で変なところがあるかも知れません(暇潰しにどうぞ)。もちろんこれは自分にとってはじめての英文エッセイだったわけでありまして、時間がかかってしまったわけです。が、英訳するのに時間がかかったというわけでは必ずしもありません。ここに載せてある内容は、実ははじめ書いたものと変わっています。初めて下書きを提出して返ってきた時に先生におかしいと指摘され、いろいろな本を読んで(といっても「利己的な遺伝子」以外はあまり読んでいませんが)、考え詰めた結果です。そういう意味でも、いろいろと手がかかったレポートです。

 内容についてですが、まずはじめに一言いわせていただきますと、「このエッセイをあまり真に受けないで下さい」ということです。エッセイの最後でもことわってあるように、ここでの主張はあくまで「こじつけ」の一つです。僕自身、このレポートはそんなに好きではありません。もしかするとこのテーマはもう少し掘り下げられるのかも知れません。

本文

 環境保護のためのいろいろな活動が昨今は盛んです。例えば、ゴミの分別回収、流しに油を捨てない、水を無駄に使わない、合成洗剤を使わない、牛乳パックや新聞紙のリサイクル、等など、、。

 こういう話を聞くと「自分も注意しなきゃ」と思うのですが、実際行動に移そうとするとやはり面倒に思ってしまいます。そんな時自分は、「怠っている奴もいるのに、他人のために自分が我慢するなんて不愉快だ」と考えてしまいます。そして環境保護のために面倒なことをあえてしていても、何か煮え切らないものを感じてしまうのです。良いことをしているのに煮え切らないものを感じる。考えてみると、これは変な話じゃありませんか?

 このことは環境問題に限ったことではありません。御存知のように、環境問題のほかにも世の中には様々な「社会の矛盾」があります。例えば、差別の問題、軍事戦力の問題、経済格差の問題、銃器の問題、様々な圧力団体の問題、等など、、。探せばいくらでも見つけることが出来るでしょう。これらの問題を目の当たりにしたとき私達は、「何とか出来ないものか」と感じます。ところが実際になにかの矛盾に対して何かできる立場に置かれると、途端に私達は何かすることを面倒に思います。これはどういうことなのでしょう?

 面倒だから、と言ってしまえばそこまでです。それ以上のことは出来なくなってしまします。それはちょっと残念ですよね。そこで、「人は社会的行為(社会の矛盾を正そうとすること)をすることによって自分自身から自己満足を引き出すのではないか」と考えてみてはどうでしょう?

 問題意識を持つことも「社会の矛盾を正そうとすること」に含めて良いでしょう。つまり、「問題意識を持つことによって自分自身から自己満足を引き出している」わけです。ちょっとここで、社会の矛盾を何か一つ見つけて憤慨する自分を思い浮かべてみてください。なんだか、憤慨している自分に生き生きとしたものを感じませんか?それが私の言う「自己満足を引き出している」ということです。

 そう考えることによって、実際に行動することもできます。他人のためにするのではなく、自分のために、自己満足を得るために、行動するのです。「なんで他人のために」と不愉快にならずにすみます。

 しかし果たして「人は社会的行為(社会の矛盾を正そうとすること)をすることによって自分自身から自己満足を引き出すのではないか」などという主張が通るのでしょうか?一見とても受け入れ難いむちゃくちゃな主張のように見えます。しかし実際我々が何か社会問題に取り組むとき、何かしら快感のようなものを感じるように思われます。この主張に何か理由付けすることは出来ないのでしょうか?

 これが、遺伝子というものを考えることによって出来るのです。

 

 「囚人のジレンマゲーム」という言葉があります。(知らない人のための説明...)

 

 長い自然淘汰の結果、最も生存に有利な「気さくな奴」が生き残りました。結果として、「気さくに」ふるまうよう、それに反する行為は抑制するよう、私達は遺伝子によってプログラムされているはずです。ある程度利他的にふるまった方が生き残れるという自然の圧力を受けたわけです。

 しかし、「気さくにふるまうようプログラムされている」とはどういうことなのでしょうか?

 この「遺伝子による利他的行動」というものは、つい最近自然界に生まれたものではないはずです。長い時間をかけて淘汰されたからこそ「ある程度利他行動する生物」が自然界において多数派となったはずです。人間という種が生まれるはるか前から生物はこの性質を持っていて、それが人間にも受け継がれたと考えるのが妥当だと思われます。とすると、遺伝子は他の生物に働きかけるのと同じ様に、人間にも働きかけているはずです。人間は他の生物と同じ様に無意識的に(条件つき)利他的にふるまうはずです。

 我々が無意識に利他的にふるまうというのはどういうことでしょう?「無意識にふるまう」というのはなんか変な気もします。私達はいつも何かするときには、それをしたい、しよう、しなくちゃなどと思ってします。私達のあらゆる行動には何かしら動機があるはずです。何も考えていないのにからだがかってに利他的にふるまう、というのは無理があります。では、何を感じて私達は利他的にふるまうのでしょうか?

 自分はそれは何かの生理的快感ではないかと思います。

 何かの社会的矛盾を知ったとき、我々は憤りを覚えます。そして何かその社会的矛盾に対してしようとするとき、我々はある種の高揚感を覚えます。これらがその生理的快感ではないかと思います。

 これは一つのこじつけ的理由です。実際に人が環境問題に面するとき、それにどの程度取り組むかを決定するものは無数にあります。自分の主張する「生理的快感を引き出すため」というのは、より積極的に行動するための一つの理由付けです。