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レポート:自分の日記に見る心の成長(教育心理学)

このタイトルは当初すんなり書けそうだと思ったのですが、そううまくはいきませんでした。いろいろ考えた末、自分の昔の日記からいくつか文を抜粋して、それに対してコメントするという形で「心の成長」を考えてみることにします。

95年7月「誰しもが、自分の価値観に不安を感じていると思う」

この頃の自分は自分の価値観に自信が持てなくなっていました。それはこの年の2月から6月まで、神戸でボランティアをしていたことと関係があります。震災地で私はいろいろな人に出会い、特にある一人の人との出会いによって、自分の価値観の中に他人の価値観を受け入れることを私は余儀なくされたのです。

これは自分の人生の中ではじめてのことでした。さらにその新たに受け入れようとした価値観は、それまで自分が持っていた価値観とかなり違うものでした。乱暴に言ってしまえばその違いは理性と本能、理論と感情のような違いです。7月のはじめくらいまで精神的に随分とひどい状況が続きました。上の文を日記に書いたのはそれがある程度落ち着いてきた頃のことです。

今この日記の一文を振り返ってみると「そうかなあ?」とも思います。今までいろいろな人と会って話をしてきましたが、ほとんどの人は自分の価値観に不安を感じている様子はありませんでした。もし不安があったとしてもそれを他人に話す人は少ないようです。

自分の価値観に不安を持つことは、自分の判断に不安を持つことでもあり、とてもしんどいことです。それを避けようとすることは当然だと思います。その一方で自分の価値観を絶対だと思うと、もし別の人の価値観が自分のものと違っていても受け入れられません。それがあまりに極端になってしまうと、価値観の違う人どうしはばらばらになってしまい、社会が不安定になってしまいます。結局多くの人は、自分の価値観に不安を感じることを避けつつ、でもある程度は他人の価値観も受け入れようとしているように私は思います。

95年7月「会話が何かうまくいかなかったとき、50%は自分が悪いが、もう50%は相手が悪いのだ。はっきりと自分が悪いとわかるならともかく、そうでないなら深く考える必要はないし、それを蒸し返す必要はもっとない。実は相手が反省しているかもしれないし、単なる気分の問題と言うこともおおいにあり得る。」

世の中には何か人間関係上の葛藤が生じたとき、自分が悪いと考える人と、自分は悪くないと考える人といるような気がします。これはかなり暴論に聞こえるかもしれませんが、私は昔は後者で、その後しばらくは前者でした。ですが前者では自分はどんどん泥沼に落ち込んでしまいますし、後者はまわりの人が迷惑です。結局両方の立場にまたがることが最良ですが、自分の立場がはっきりしないということにもなります。

また世の中には人間関係上の葛藤をうまく避けている人と、避けることができていない人がいるような気がします。うまく避けている人は自分にとってもまわりにとっても問題ないわけですが、問題なのは避けることができていない人です。この人達が問題を起こしてしまうのは、自分の抱えている問題から逃げることができない、そういう生き方を選んでしまっているからだと思います。この生き方は自分やまわりに大きな利益をもたらすこともあるでしょうが、それはそう簡単なことではないでしょう。これについては、次の文も関係してきます。

95年7月「何とか前進している。もう前に進むのは諦めようかと、何度も思った。何とか頑張っている。何とか、ね。」

この頃の自分の中には、とにかく前に進まなければならないというおきてのようなものがありました。今の自分の中にも似たようなものはありますが、それは少し違ったものです。昔はたとえしんどくても経験を重ねて考えを深めることは絶対に良いことだと思っていましたが、今では自分を捨ててまで己を高めようとするのも変だと思っています。このように考えが変わったのは結局のところ、自分がそのしんどさに負けたからなのですが、そのおかげで自分は多くの人を許容(ずいぶん不遜な言い方ですね)できるようになりました。それまで彼らは「敗者」だと思っていたのです。

しかしこのことも自分の中ではっきりしないものを作ってしまいます。しんどさを認めたことは認めたのですが、もういいやって訳でもありません。相変わらず前進しようという気持ちも残っているわけです。何とも曖昧なまま、というのが現状です。