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レポート:素粒子物理についての感想(ハドロン・クオークと多体系の物理)

コメント

 このレポートは、2回生の12月のはじめに書いたもので、集中講義のためのものです。実は、この下の方にある文章はボツ原稿です。途中まではスラスラ書けたのですが、ぱったりと止まってしまいました。もったいないので、ここに載せておきます。

読んだ人はもうおわかりかも知れませんが、白状すると、このレポートはかなりゴマスリです。本当はもっと挑戦的なのが書きたかったのですが、自分は素粒子にはうとかったのでそれもかなわす、結局こんなのになってしまいました。

 内容についてですが、どれどれ、、いろんなことに言及してますね。しかし一つ一つがどうも貧弱だ。勉強不足、ということかな。

 以下、ボツ原稿です。

ボツ原稿

 こんなはずではなかった。

 素粒子の研究をしていた科学者は、こう思ったであろう。

 

 それは、画期的な真理のように思われた。いわく、「全ての粒子は陽子・中性子・電子のたった三種類の素粒子から成り立っており、それらの組み合せによって我々の世界の多様な物質が形成されている」。それは長い長い人類の探求の道の、夢の終着駅の一つのように思われた。

 古代ギリシャの哲学者から起こった物質の真実を探し求める流れは、呪術めいた中世の錬金術や近代のフロギストン仮説などの誤った寄り道をしながらも少しずつ進んでいった。その流れは、迷信から脱却した真に科学的な化学実験の方法の確立と共に加速して、遂に物質は様々な原子の結びつきより成り立っているという事実(原子論)を突き止め、原子の全体像を見渡す周期律表をメンデレーエフが見いだすに到った。さらにその本質を追及する動きは続き、前世紀末の電子の発見から科学は原子の中にまで入り込み、遂に原子が陽子・中性子・電子から成り立っていることを解明した。

 ここまでは美しい。遂にここへ来て科学といういとなみが自然のシンプルな原理を手にしたように見える。高校の理科の授業でもここまではやる。だが、ここで今まで突っ走ってきた科学の進歩は一休みしてくつろぐどころかさらに加速する。それまでの物理学の成果を基に、素粒子のふるまいの完全な記述を目指したのだ。

 しかしそれは簡単ではなかった。簡単どころか、至難の作業だった。

 既知の理論では全く説明できない様々な現象が、幾人もの偉大な科学者を悩ませた。我々の現実に住む世界を記述する理論とはまさに全く異なる法則性が、素粒子の様々な現象を支配しているようであった。それまで築き上げられてきた数々の科学理論をまるであざ笑うかのように、実験室の中の素粒子達はふるまった。例えば、一つの粒子が同時に二つの通り道を通って一つの目的地にたどり着くなんて事があるだろうか?全く新しい、平凡な直観を越える考え方が、必要だった。

 そして、素粒子は増えはじめた。

 科学者達は、嘆息をつきながらも超ミクロの世界を探っていった。だが、どうしてもうまくいかない。しかたなく、説明できない現象を説明するために、いくつもの新たな素粒子が導入された。たった三つの粒子の組み合せだけで説明できるほど、現実は甘くなかった。素粒子そのものの性質についても考えなくてはいけなくなり、導入された新しい性質はスピンという名前がつけられた。しかし実際の素粒子が「回転(スピン)している」とは、現実には考えにくかった。しかし実際の粒子のふるまいをまとめて法則のかたちにしていくには、そういう新しい概念を作っていくしかないように思われた。単純と思われたものは、すぐにややこしくなってしまった。

本文

 随筆風に書いてみました。必ずしも講義の全内容を反映しているとはいえませんが、思い切ってこんな形にしてみましたが、いかがなものでしょうか。

 

 「素粒子」とか「クオーク」といった言葉を聞くと、一冊の本をまず思い出します。高1のときに繰り返し読んだ本です。今ではタイトルも忘れてしまったのですが、かなり強い印象を受けた本で、内容もかなり鮮明に覚えています。

 実は、漫画です。その本はいわゆる学習漫画というやつでした。古代ギリシャの自然哲学から最近の素粒子物理の話(といってもせいぜいクオークの価数の話ぐらいまでですけれども)までを題材として、原子のような可愛らしいキャラクターと中学生の少年が2人で話を進めていきます。

 はじめは、あまりよくわかりませんでした。解説文(これがまた小さい字で書かれている)はほとんど読まないで絵だけを見ていました。しかし読み終わっても読み終わった気がせず、2回3回と読み返しました。解説文も読みました。それも何回も読み返しました。そして、じわじわと話がわかってきたのです。

 「なんてすごいんだろう」

 それは、高1の自分には感動的な体験でした。思えば理系に進んだことも、そんな事があったからなのでしょう。

 

 ちょっと前まで自分は、素粒子物理が嫌いでした。

 高1の頃から数年たって、興味も移っていました。相対性や不確定性、カオス、協調現象や遺伝子といったテーマに魅力を感じ、素粒子に対する興味は正直なところほとんどなくなっていました。「素粒子を研究したって全然面白くない」とさえ、思っていたのです。それはなぜかといいますと・・・

 新しい粒子がどんどん見つかっています。とある本によると、月2つぐらいのペースで見つかっているとか。物質の最もシンプルな姿をずっと追い求めてきたはずなのに、ようやくたどり着いた素粒子の世界は、我々の住んでいる世界と同じく複雑な世界でした。ところでカオスの考え方によると、この世は入れ子状(フラクタル)の構造になっているといいます。つまり、自然はスケールを変えても同じような複雑さを保っているのです。そこで自分はこう思いました。「なんだ結局、いくらスケールの小さい世界へ入っていっても、単純なものは存在しないのか。じゃあ素粒子はもういいや。」今にしてみれば、これは浅はかでした。

 

 5名の教授の方々による今回の講義を受けて、だいぶ素粒子に対する自分の印象は変わりました。

 素粒子達のふるまいは、とても興味深いものでした。個々の素粒子の間の相互作用によって全体はカオス的なふるまいをし、協調現象もあって我々の世界と同じようにいくつかの異なる相をもっています。しかも、めいめいがそれぞれのやり方で息づいてさえいるのです。

 特に興味深かったのは、対称性とその破れということについてでした。

 核子が集団的な回転運動をしているとき、原子核のポテンシャルはラグビー型と呼ばれる形をしています。回転軸がそのラグビーボールの腹の部分を突き刺すようにそれは回転し、その結果ポテンシャルは回転軸に対して対称とはならず、非対称です。これは以下のように解釈されます。すなわち、核子が自発的に対称性を破った形をしていて、その失われた対称性を回復するために回転しているのである、と。核子が変形すると対称性が破れ、回転を始める。これはどういうことなのでしょう?さらに「変形」と一言でいってもいろいろあり、特に実験室で作ったようなものは、なんと形容したら良いかわからないような形です。自然にはそのような変な形の変形(ん?)は見あたりません。なぜなのでしょう?

 

 新しく加わったテーマは、対称性です。しかし少し考えてみると、これは素粒子の世界に限らず、我々の身の回りにもいくらでも見つけられる性質であるような気がしてきます。例えば人の顔です。私達は漠然と「顔はだいたい左右対称」と思っています。しかし一説にはどんな顔も、絶対に左右対称ではないそうです。実際、細かくよく見ないとわからないでしょう。しかしそのおかげで我々の耳はその単純な構造に反して、とても高度な音源位置の認識能力を実現しているのだそうです。

   「対称性」。自然はこの性質に従うと見せかけつつ、あまたの場所で裏切っています。かゆいところに手が届きそうで、届かない。もどかしいと言うほかはありません。でも、「だからやめられない」という噂もありますが・・・