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レポート:理性と本能(生態学)

「本能」か「理性」か、それが問題だ。

 

かつては、そんなことに深刻に頭を悩ませた・・・そんな時期がありました。一年と半年ほど前のことですが、まあ、今でもときどき迷ってしまいます。

勉強、仕事、人間関係、等々・・・いろいろなことで、「さて、どうするか?」という時があります。そんな時、理性の告げる答と本能の告げる答とが食い違ってしまい、困ってしまうことがありますよね。理性はこうすべきだと告げているのに、本能の望むところは違う・・・そんな時、「どっちの選択肢を採ればいいのか?」「私はどっちの選択肢をとるべきなのか?」。

高校や大学に入ったばかりの頃は、このような悩みはありませんでした。その頃は迷いなく以下のように考えていたのです。

 

本能なんて無視すればいい。きちっと理性に従って進んでいけば、予想できるトラブルは避けられる。本能なんかに流されるのは、愚かで自制心のない奴のすることだ。しっかりと自分を自制し、本能を押え込むことによって着実で正確な道を歩もう・・・

おお、なんだか書いていて自分で「その通り」のような気がしてきます。本能に流されることが大きな失敗を呼ぶことは、幾多の歴史も教えています。数多くの支配者たちが、自分の欲望に流されて、史実に残るような惨事を起こしてきました。幼かった頃の私はそういった歴史を読んで、「自分はこんな風にはなるまい」と思ったものでした。しかしそれが今では、ひとむかし前のことに思われるのです。この変化のきっかけとなったいきさつについてお話しましょう。

 

「植田君は理屈で考えすぎる。心で感じることも大切なんだよ」

 

まだ肌寒さの残る4月、神戸で震災ボランティアをしていたときに、大好きで尊敬もしていたある人から言われたことです。夜に、花見の席で宴会をやっていたときのことでした。

続けてその人は言いました。「例えばとてもきれいな夕日を見ていて、ふと涙が出てしまったなんて事はある?」。そのときまでの私には、ありませんでした。全くそんな事は、考えもしなかったことでした。自然の美しさに注意を向け始めたのは、それからです。ところが注意を向けてみると、これが美しい。鴨川の青々しい両岸の土手の上を桜が並んでいるさまなどは、心を空っぽにして見てみると、めがしらが熱くなるくらい美しいものでした。それにしても、「なぜ今まで気づかなかったんだろう?」。

この人以外にも神戸にボランティアに来ていた人達は皆、私のように理屈を立てて行動する人達ではありませんでした。それなのに皆、自分で判断する力を持ち、一生懸命に仕事をして、そして物事を心で感じることのできる人達でした。そんな人達の中で私は、自分の不完全さを痛感したのでした。

続く2ヵ月間、それまでの価値観が急速に叩き壊されていきました。私が今まで長い間考えてきたものは何だったのだろう?様々なことについて良い悪いの判断が全くできなくなり、ひどい欝状態におちいりました。生きた心地のしない毎日が繰り返され、窒息しそうな気分が続きました。知り合いから「今にも自殺しそうな顔をしているよ」と言われたこともありました。本当に、ひどい時期でした。

以前の価値観からようやく新しい価値観が形をとり始めたのは、梅雨に入った6月の終わり頃でした。特に何かひらめいたわけでもありませんでしたが、胸のつかえはゆっくりと降りていきました。最終的な結論は、単純なものでした。すなわち、「素直がいちばん良い」。物事を感じることの素晴らしさを学んだのです。

 

このような考え方の変化の中で私が思ったのは、いちばん最初に挙げたことです。すなわち、「本能か理性か、それが問題だ」。そんなとき私は、生態学に興味を持ちました。

動物たち、植物たち、昆虫たち、微生物たち、そしてその他の様々な生き物たちは、理性なんてものは(おそらく)持っていません。本能のみで生きています。だから、「悩む」なんてことはないでしょう。

ただ本能の導くままに、死を迎えるまで生きる。卵から生まれて、体を動かすことを覚え、餌を食べ、つがいを求め、子供を作り、この段階で死んでしまうものもいれば、さらに子供のために餌を集め、子供にいろいろな生きていくための技術を教え、子供を巣立たせてから死んでいく生き物たちもいます。

私は彼らにあこがれました。私はこんなにも本能と理性の狭間で悩んでいるのに、彼らは平然として彼らの毎日を過ごしているように見えます。「なぜ!?」と叫びたい気持ちでした。(未完)

 

(まとめきれませんでしたが、以下の文章を補追しておきます)

 

ライアル・ワトソンは一風変わった科学者です。

彼は、地球生命には何らかの超自然的な世界が存在するのではないかと考え、それを認める新しい科学を確立しようとしている人です。その著書「未知の贈物」(筑摩)の冒頭に、こんな一節があります。

アリゾナ砂漠の片隅、メキシコとの国境の近くに、パパゴ族という音楽好きのインディアンが住んでいる。彼らは西洋の服を来て、アドービ煉瓦の家を造り、ほこりだらけの小型トラックで乾いたソノーラ(メキシコ北西部)を渡る。しかし、近代的な装いの下は昔のままである。大声をあげない、やさしい、詩的な人々である。・・・  

優秀な農場経営者でもビジネスマンでも、同時に作家や詩人であることによって価値を認められる。感情豊かであり、ユーモアと恥かしさをもち、母の愛情を表現できて、孤独な子供と一緒に泣くことができる人であることが要求される。  

彼らの中に入っていくと、私は自分の不完全を憂う。平たい顔をした頑丈な褐色のパパゴ族の男たちには力強い、男っぽい存在感があり、彼らといると自分が無力に思えてくるものだ。しかし、彼らは明らかに女性的な要素と思われる慈悲と感受性を放射する。そのバランスを楽に保っている彼らがうらやましい。  

真の個体化への鍵はこのバランスにある。・・・