「宇宙はどうやってできたのですか。教えてください。」
「神様への手紙」を書いてごらんと言われて小学生が書いてきた手紙の中に、こういうものが二通ありました。今年の夏、美術館でバイトをしていたときのことです。他にも「お母さんのお母さんのお母さんの・・・いちばん最初のお母さんは、どうやって生まれたのですか。」という手紙や、「地球は丸いのに、なぜ私たちは落ちないのですか。」という手紙がありました。
そういえば、私も昔はそういう疑問に対する答にとても興味を持っていました。いろいろな本を読んだり、高一の頃に『NEWTON』にハマったり、NHKスペシャル(「銀河宇宙オデッセイ」とか「地球大紀行」、「アインシュタイン・ロマン」とか、ありましたね)も好きでした。一つ一つ、答を知るのに夢中になったものです。それは発見と興奮の時代でした・・・子供たちの手紙が、そんなことを思い出させてくれました。
自分にそういう時期があったことを、いつの間にやら忘れていました。
京大理学部に入って一年目の頃は、まだそういった探求心があったのですが、二回生になった頃からかれこれ一年半、そういった話題から遠ざかっていました。昔はあれほど夢中になったのに、不思議なものです。まあ、昔はそれだけだった(つまり興味の世界がせまかった)、ともいえるのですが。
このような科学の好奇心を持ち続けている大人は、あまり多くないのではないかと思います。しかしそんな人でも、かつては持っていたのかもしれません。けれども年が上がるにつれて忙しくなり、身近なことに専念しなければならなくなり、いつしか頭の中から消えていったのではないでしょうか。自分のことを振り返ってみて、私はそう感じます。宇宙とか生命といった現実と離れた事柄に思いをはせる余裕のあった昔を、私は懐かしく思うのです。そして今、その余裕を失ってしまっていることが、何だか悔しい・・・って、そんなに忙しいわけでもないのですけど。
さて、私は冒頭の言葉(「宇宙はどうやって・・・」)が気になっていました。そこで、子供たちの劇の台本にこの言葉を台詞として使わせてもらうことにしました(最初に「美術館でのバイト」といったのは、子供たちが劇を作って上演するお手伝いなのでした)。
私は五人の子供たちのグループを受け持っていたのですが、彼ら・彼女らに聞いてみました。
「この台詞に対する答をどうしようか?別に何でもいいのだけど。」
子供たちは困ってしまったようです。「何でもいい」といわれても、そう簡単には思いつけません。それでも少しばかり考えた後、一人が思いついて言いました。
「コージーコーナーのジャンボシュークリームの中から出てきた、てのはどう?」
おやおや、これはなかなか面白いアイデアがでてきました。コージーコーナーというのはよく分かりませんが、どこかのお店の一つのコーナーでしょうか。まあそれはともかく、このアイデアは即採用です。この調子であと二つくらい出てこれば・・・と思ったのですが、結局これが唯一のものになってしまいました。やはり少し無理があったようです。仕方ありません。あとは私が考えることになってしまいました。
この台詞は実際の劇では、はぐれた少年と二匹の猫が別々によたかと会うシーンで使いました。場面は暗い森の中。まず、迷ってうろうろしている一匹目の猫によたかが話しかけます。
「おい、そこのおまえ。俺はいま、悩んでいる。おい、宇宙はどうやってできたんだと思う?」
猫はびっくりしますが、すぐに気を取り直して言います。
「あのね、コージーコーナーのジャンボシュークリームの中から出てきた!」
「シュークリームは食べ物じゃないか」
「でもそうなんだもん」
よたかはいぶかります。
「おまえ見たのか?」
「昨日の午後、東急ストアにケーキを買いに行ったら、お店のシュークリームから宇宙が出てきたんだもん」
「シュークリームの中から出てきた?」
「うん」
「シュークリームの中から出てきたのか・・・」
よたかは少し考えた後、「いいだろう」といって道を教えてやります。猫は礼を言って走り去ります。
次に二匹目の猫がやってきます。よたかは同じように話しかけます。
「おい、きさま、宇宙はどうしてできたんだと思う?」
猫は答えます。
「え?宇宙?・・・やっぱり、宇宙はできたから」
「宇宙はただできたんじゃない!」
「まず最初は地球と月と星々ができて、その星がいっぱい集まって宇宙ができた?」
「星が集まっただけで宇宙ができるとは思えんな。もう一度考えてみろ」
「え?えーと・・なんだろう?」
困ってしまった猫に、よたかは言い放ちます。
「まったく近ごろの小学生は・・・教科書みたいな解答しかできないのか」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
結局猫は道を教えてもらい、立ち去ります。
ところで、よたかの台詞がなんだか面白いと思いませんか?これは私が作ったものではなく、よたかの配役の子に考えてもらいました。この子はなかなか変わった子で、実ははじめのうちは私はけっこう泣かされたのですが、後半で大化けしてくれました。ただ、最後の「教科書みたいな・・・」はさすがに子供には無理で、私が考えました。
さて、いよいよ最後の少年の番です。前と同じように、よたかが話しかけます。それに対して、少年が答えます。
「塵が集まって星ができて、宇宙ができたんだよ」
「それだけか?塵はどこから来たんだ?それがわからないじゃないか」
「えーっと・・・」
少年は首に下げていた本を開きます。
「はじめはね、この世界にはゆらいでいる力だけがあったんだって」
「ふんふん」
「そのゆらぎがポンってはじけて、時間が生まれたんだよ」
「へえへえ」
「と、同時に力が物質になって」
「ほうほう」
「光とともにこの世界が生まれたんだって」
「はー、そうだったのかー」
よたかはしばし感じ入ります。と、少年の方を向いて聞きます。
「おまえ、今の、何のことか分かるか?」
「ぜーんぜん」
よたかはニヤリとして、少年に道を教え、自分もそのあとをついて行きます。結局二匹の猫と少年は会うことができ、一緒に目的地にたどり着きます。
劇の話が随分長くなってしまいましたが、最後の少年が読む本の内容はむかし自分が読んだ『ニャロメ博士のホーキング宇宙論』(たしかこんなタイトルでした)をもとにしています。「世界にはゆらいでいる力だけがあったんだって」という台詞の中の「力」というのは、本当は「エネルギー」といいたかったのですが、子供には分からないだろうと思っていろいろ考えた末、こうしました(「精霊」という手もあったのですが、これだとちょっと非科学的すぎるかなと思って、やめました)。
これ以外にも、この箇所の台詞にはずいぶん悩みました。我々理学部の人間には、「四次元の世界の一つの次元が相転移を起こし時間となり、これにより宇宙がインフレーションを起こしてビッグバンが起こった」といえば何のことか分かります。しかし、子供相手ではそうもいきません。子供にわかる概念ですべて説明しなければなりませんし、変に省略すれば事実と違ってしまいます(本当に事実なのかは分かりませんが)。嘘をでっちあげるのは論外です。しかし出来上がったものは結局、変な感じになってしまいました。わかりやすく説明するのは、本当に難しいものですね。
しかしこのようなどんな人でも興味を引くような話題が、我々のような一部の人間だけのものとなっているのは、とてももったいないことではないかと思います。同じような思いを抱いている科学者は、過去にも現在にもたくさんいることでしょう。
実際、ガモフとかアシモフといった科学者は中高生くらいを対象としたとてもいい本をたくさん書いていますし、他にもたくさんのその系統の「啓蒙書」が出ています。
けれども、科学的な興味は以前として限られた人達のものという感じは否めません。生命や地球、遺伝子の話や原子の話はまだわかりやすいとしても、宇宙の話や時空の話、量子の話、素粒子の話、対称性の話やカオスの話といった、深く知ればとても面白い話題はまだまだ遠ざけられているような気がします。私の後輩は「そういうのは、むかしは興味あったけど、頭が痛くなるのでやめた」といいます。私自身の場合は、頭が痛くなるわけではありませんが、いつのまにか遠ざかっていました。それを思い出させてくれたのが、先ほどの劇だったわけです。しかし・・・
それにしても、むかしあれほど夢中になった自分は、一体どこへ行ったのだろう?
この文章のはじめの方で、この問いに対する答として、私は「現実と離れた事柄に思いをはせる余裕があった」といいました。しかしいま自分の心を振り返ってみると、どうもそれだけではないような気がするのです。
こんなことを言うのは少し恥ずかしいのですが、むかし自分が科学に夢中になれたのには、その知識を誰かに自慢できるのではないかという期待がその一因となっているような気がします。もちろんこれだけではありません。なんだかわからない事柄がわかった(ような気がした)ときの感動は、いちばん大きいと思います・・・が、自慢できるという期待があったことは否定できません(私の友人の一人もこれには同意しました)。
ところが大学に来てしばらくたつうちに、それが別に自慢できることではないということがわかってきます。いろいろな分野を勉強している人と知り合い、関心の範囲が広がるにつれて、自分の持っている科学の知識は以前思っていたほど大したものではないと、わかってきます。たいていの人は、科学の知識よりも先に知りたいと思うことがたくさんあるのです。それはその人の勉強している事柄であったり、その人を取り巻く人達についてのことであることもあれば、日々のニュースであったり、その時期の流行であったりもするでしょう。(未完)