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熊野寮で「軟鉄庵」をつくったときのこと

1998年の寮祭で軟鉄庵は生まれました。

企画内容は単純。寮祭期間中、事務室前の空間の片隅に畳を2枚敷いてコタツを置いて私が常駐する。これだけでした。寮祭パンフにも載っていない、言わばゲリラ企画でした。

当時私は修士1回生で、論文を書いていました。ずっとコタツに入って書いてました。しかし、なかなか捗りません。なぜなら、ありがたいことに軟鉄庵には来客が頻繁に来てくれたからです。

午前中は私一人のことが多かったですが、お昼も過ぎると2人、3人と人数が増えていきます。夜になると8人くらい集まったりして、1つのコタツにみんなでギュウギュウになって入っていました。誰かがたくさんのミカンを差し入れてくれました。みんなの帰属ブロックはバラバラ。談話室がブロックの交流の場なら、軟鉄庵は寮全体の交流の場でした。

ちなみに寒かったです。12月の外気がひっきりなしに入ってきます。温度環境としては劣悪でした。しかし入り口のすぐそばにあるという立地は、ブロックに関係なく帰ってきた寮生に声をかけやすく、勧誘環境としては最高でした。

長谷川さんに怒られました。事務室前でコタツに入ってたむろっているのは不衛生だというのです。「まあ寮祭期間中だけですから」と説得し、なんとか納得してもらえました。

どんなことを話していたっけな。

そういえば当時、ある若い男子寮生がある先輩女子寮生にアタックをかけていて、軟鉄庵で彼は刻々と事実経過を報告してくれました。積極的なアタックの姿勢に感心し、盛り上がり、みんなで彼を応援したものです。

「クサいセリフを練習しよう」なんてことをやったりもしました。みんなでクサいセリフを言い合って、どのセリフがいちばんクサかったか決めるのです。これも盛り上がりました。個人的にはこの経験はけっこう役に立った気がします。これ、うちのかみさんには秘密ですよ。

さて、そんなこんなで寮祭期間が過ぎ、撤収の時がやってきました。しかし軟鉄庵存続を求める声があちこちから上がりました。嬉しかったですね。個人的にもブロックをまたぐ貴重な交流の場だと感じていたので、長谷川さんにお願いしに行きました。

しかし長谷川さんは折れません。いろいろ離した結果「下足室ならいい」という話になりました(あそこは昔・・・私が入寮するよりもはるか昔、下足室だったのです。私がそれを知ったのは、B1のブレーカーパネルを開いたら「下足室」と書いてあるブレーカーがあったからです)。

そして畳が増え、コタツの数も2つになり、軟鉄庵は少し居心地良く、しかし残念ながらA棟の寮生を捕まえにくくなりました。私はノートを買ってきて「なんてったって」と名づけて置いておきました。ありがたいことにいろんな寮生が個性あふれる書き込みをしてくれました。具体的な内容は忘れましたが、けっこう難解な議論や赤裸々な叙述が書かれていたと思います。あのノート、残ってないかなあ。

私が卒業するときはベッドやパチスロマシンまで導入され、1つの独特な空間を実現していました。現在は「BAR KUMANO」の看板が立って常に暗幕で囲われています。「軟鉄庵」の名称は、その後派生して、B地下BOXの一部が「硬鉄庵」と呼ばれているそうです。

それとは別に、今日では畳2枚では済まないスペースが事務室前に展開され、ソファーも置かれて寮生交流のための常駐空間になっています。「軟鉄庵」の魂は、そちらに受け継がれているのかもしれません(こちらのスペースについての記事もこの記念誌に掲載されているそうですので、探してみて下さい)。

ちなみに「軟鉄庵」という名前は、私が高1の時に友だちとの間で回していたノートの名前が起源です(このノートでもいろんな議論が交わされました)。文系の友人がそのノートに「軟鉄ノート」という名前をつけてくれました。私はその名前がとても好きだったので、7年後、使わせていただいた、というわけです。

あれから15年。私は硬い鉄になれたのか? 否。でも、私はこれからも軟鉄でありたいと思います。

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※この文章は2014年11月に発行された「京都大学熊野寮五十周年記念誌」に寄稿したものです。