The Untitled

ひっそりと再開。方針はまだない。

内府の計略振るわず・・・「入札級関ヶ原」をプレイ

本日はming氏とGJ32の「入札級関ヶ原」をプレイ。

1600年9月17日夜明けから日没までの1日を、東軍・西軍に分かれて戦うことになる。

 

 

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担当は私が東軍、ming氏が西軍。

 

なお、家康は事前に小早川に70万石与えるかわりに寝返って欲しいという書状を送付済み。西軍四将(脇坂・朽木・小川・赤座)には30万石。さらに毛利秀元に30万国の代わりに攻撃を遅らせるよう(弁当でも食べていると言っておけ)書状にて要請済み。石田治部の包囲作戦の鼻を明かす気満々であった。

 

夜明けと共に井伊直政が抜け駆けし、畿内への中山道を守る大谷吉継の前面に躍り出る一方、福島・田中・筒井が天満山の麓を守る宇喜多に突撃。関ヶ原の北寄りに進軍してきた黒田・細川は笹尾山前面に陣取る島左近に打ちかかる。

 

全体としては東軍が西軍を関ヶ原の西の壁に打ちつけるようしてに戦闘が始まった。

 

午前9時、家康はまだ動き始めていない島津に威嚇射撃をするが、薩摩隼人たちは素知らぬ顔。

 

その一方で、石田三成が大阪から持ってきた大砲「国崩し」を隠密が故障させることに成功。「国崩し」は一発も吠えることなく無用の鉄塊と化した。大きく弱体化した笹尾山を黒田・細川が蹂躙する。島左近討ち死に。石田三成は笹尾山を逃げ降りて北国街道の要害である小池村に入る。

 

さらに福島正則・藤堂高虎・井伊直政らがうっかり最前線にいた宇喜多秀家を捕捉。手勢がじゃまになって秀家は撤退に失敗し討ち死に。これによって宇喜多が連れてきた手勢は指揮系統がなくなり、力半減。

 

ここまでは東軍の圧倒的展開だった。

 

午前11時、西軍は宇喜多秀家はもういなく、石田三成も必死の防戦中であったため、大谷吉継が西軍総攻撃の狼煙を上げた。大谷が上げたからだろうか、なんとこれに小早川も西軍四将も即従い、松尾山を降りて、なんと中山道へ西軍を押しこみ始めていた東軍の後ろに襲いかかった。福島と井伊が包囲され、壊滅。家康、しばし呆然。

 

さらに毛利秀元と吉川広家が何もなかったかのように南宮山を降り始める。どうも30万石では少なかったらしい。東軍の退路である東山道に向かったくる。

 

すべて家康にとって最悪の展開だが、昼過ぎに黒田・細川らが石田三成・島津・小西を討ち取り、北国街道への退路を断つ事に成功(この時点で西軍の総大将は小早川秀秋に)。

 

勝敗の行方を決めるのは、中山道方面の大谷吉継と小早川秀秋を東軍が討ち取れるか否か、となった。

 

東軍は家康自らの総がかりで攻めこみ、東軍すべてが中山道に集中した。が、あと一歩の所で午後3時頃、小早川秀秋はなんと中山道を近江へと逃げてしまった。

 

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退路を失った東軍は伊勢路をからくも逃げおおせ、大垣城についたのは真夜中であった。

 

得意の野戦において敵を打ち破れなかったことによる家康の威信の低下は大きく、筒井定次が秘密裏に西軍と単独講和を決めて領国大和に引き揚げた事件を皮切りに、諸将の離脱が相次いで戦力が大幅に低下。せっかく落とした岐阜城を放棄して清洲に退却することを余儀なくされた。この戦況を見た大阪がついに動く。11月に入って輝元との連名で発行された秀頼の書状が決定打となり、東軍大名が続々と西軍との和睦を表明。家康もここにいたってついに武装解除に同意した。

 

戦後家康は八丈島に流罪。徳川家は榊原康政が秀忠勢の遅延を果たした功を認められ、安堵された上州館林をそっくり譲られた結城秀康によって存続した。