私も初めて聞く「田丸城」、行ってみると、とてもしっかりした城跡でした。特に石垣の修復中の現場があったため、石垣の断面図を見ることができ、とても勉強になりました。
ツアーには町長さんと教育長さんも同行され、「あの木は邪魔ですね」と千田教授が言うと「では切りましょう」と町長が即答、まるで孫正義のようなやりとりが交わされました。
田丸城って?
三重県中部にあります。
ここです。
築城はずっと昔になりますが、戦国時代には織田信雄、藤堂高虎などが支配した城です。
城外
たままるくん
田丸城のゆるキャラです。日曜日なのに出迎えてくれました。
奥書院
ここでお昼ご飯を食べます。
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三の丸にあったんですね。
普段は非公開の掛け軸。このツアーのために出していただいたそうです。しかし何と書いてあるかサッパリわかりません…😩
みんなで昼食中。
場内へ
三の丸
ここは枡形ではなくて、ただの自動車道。
中学校が建っています。
ライトアップ用の模造天守が見えます。
大手道
見えてきました。
虎口ですね。
枡形
枡形です。
枡形の整理
ここで整理しておきましょう。
まず平入り虎口。
次に喰違虎口。
外枡形の枡形虎口。
田丸城の枡形
枡形が連続しています。
門の基礎跡。田丸城では門が外を向いてしまっています(外側から見るとまっすぐに丸太をぶつけて門を破ることができるので、攻め手に有利)。先ほどの枡形虎口のように、門が外に対して90°直角になっているのが理想形です。
連続枡形を登っていきます。
石垣
野面積み。自然石が多いですが、わずかに切石を使っています。角がのりがえしで高くなっています。
自然石
特に人が加工していない石です。石垣はゴロゴロッとした感じになります。
切石
大きな岩に小さな穴を連続的に作り、木を差し込んで水を注いで木の膨張力で、岩を割ります。密度の詰まった石垣を作ることができます。
栗石
時間が経って奥の栗石(ぐりいし)が表に出てきてしまっています。石垣が修理されていますが、元は隙間は空いていませんでした。
算木積みで年代がわかる?
これは見事な割石の算木積みですが、修復したときのものでしょうね。
算木積みとは以下のような石垣の積み方です:
ちなみに「算木積みがどれくらいできているか」でその城の年代がわかると言われていましたが、どうもそうではないらしいということがわかってきました。
例えば、佐賀県肥前名護屋城。
この城壁で、算木積みでないものがあるそうです。
実は、算木積みだけでは古いか新しいかわからないのです。算木積みが進化していくと同時に、「重ね積み」が別の進化をしていたのです。
例えば熊本城。
細川は算木積みで拡張していますが、清正は重ね積みで30mの高さを実現しています。
本丸
そろそろ本丸です。
ライトアップ用なんちゃって天守閣。
付櫓
この天守閣には付櫓(つけやぐら)もあったそうです。付櫓というのはこのようなものです:
わかりますよね?
天守台
天守台から伊勢湾を望む。
北の丸とのあいだには大きな空堀があります。
石垣修復現場
ここが大変勉強になりました。
二の丸への土橋の石垣の修復現場です。元は切れていた(木橋がかかっていた)が、後から土橋にしています。
石垣の3層構造がよくわかります。
- まず土を入れて、
- 次に栗石を入れて、
- 最後に大きな付け石を付けています。
土橋の石垣の方が食い込んでいるので、造られた順番としては、土橋の石垣が先に作られて、後に二の丸の石垣が作られていることがわかります。
石垣の長辺を見ると、名古屋城などは石垣の石が奥に長いように積まれています。
これに対し田丸城は長辺は表側、熊本城もそう。古い時期の石垣だとわかります。名古屋城タイプの石垣の方がつくるのは大変だが丈夫なのだそうです。
二の丸
算木積み。新しい城のきれいな割石による算木積みではなくて、古い城の自然石を乗せていった積み方をしています。
二の丸の枡形。攻め手は進むたびにとにかく城壁にぶつかり、上から矢が雨のように降ってくるわけです。進んでいくのは大変です。
中央部分に算木積みが残っており、石垣を拡張したのがわかります。
リンク
名古屋歴史ナイトを主催されていて、ご自身でもカツイエ.comというサイトを運営されている北村さんの記事が、また違った視点で書かれていて面白いです。
おわりに
石垣の修復現場で、石垣の断面図を見ることができたのが大変勉強になりました。まず土を盛り、小さい石でまわりを固め、大きな石垣をその上に積むんですね。
田丸城は、田舎にある城にしてはよくできているというか、立派な石垣が残っています。機会があれば行ってみるのも良いのではないかと思います。