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このエッセイを見てすぐ思い出すのは、これを書いた時のことです。それは2月のはじめ、試験の真最中でした。電磁気学のテストとこのレポートの期限が重なっていたため、僕はとても困っていました。結局期日に先生に会いにいって、このレポートの期限を1日伸ばしてもらったのですが、それでも1日で書き上げるのは辛かったです。そういう事情で、いま読み返してみても「うーん、何だかなあ」というレポートです。
内容についてですが、実はもともとの課題とは離れたことを書いています。本当はこのレポートは、イギリス18世紀の学者バークレーの書いた「ハイラスとフィロナスの対話」にからめて書くべきものでした。この対話について説明すると、これを通してバークレーは「感覚の相対性」ということを指摘し、観念論の見方でもって科学のあり方を批判する、というものです。え、よくわからない?いや、実は僕もしっかりとはわかっていないんですよ。何となくはわかっているつもりなんですけど、、んー苦しいな。とにかくそういうものについて書くはずだったわけです。「はずだった」、と、、
実際自分が書いた内容は2回生の夏頃、少し落ちついて余裕も出てきたころに考えたことです。テーマは、「科学とは何ぞや?」。読んでみたあなたは、まあどうってことはないないように思われるかも知れませんが、実際その通りです。でも、自分はけっこう気になっていたので、わりと考え込みました。自分も理系の人間ですから、気になりだしたら放っておくわけにもいきません。まあ、でも、もう少し深めたかったなあ。
本文
少し前に自分は「科学」について考え込んだことがあります。それは神戸でのボランティア活動がきっかけでした。それまで科学については無批判だった自分にとって、そのことは大きな一つの転機となりました。
自分が神戸で震災ボランティアをしていたのは、昨年の2月から5月にかけてです。その最中に、一緒に仕事をしていたある法学部生がこんなことを言いました。
「この地震でたくさんの人が建物の下敷になって亡くなり、道路はひび割れて交通が麻痺し、ガスや水道が使えなくなって生活に困ってしまった。でもこんな事は文明なんてものがなければ全部起きなかったことだ。道路も舗装されていず、人が立て穴式住居に住んでいるような時代だったら、こんな地震の後でもあまり変わらない生活を送ることができたはずだ。結局のところこの地震でわかったことは、文明や科学技術はなくてもよかったということだ。」
自分は、理学部の者として、この発言に納得のいかないものを感じました。しかしそのときは明確に反論することもできず、何もいい返しませんでした。
ここで少し、科学というものを考え直してみましょう。
科学は確固たる方法論でもって、数え切れないほどの様々な現象を説明してきました。はじめは物体の運動から物質の組成、生物の仕組みなどをじょじょに解明し、さらに身の回りのあらゆる物から手のとどかない世界にあるものまでその理解は進んできました。今や宇宙の果て、地球から何十万光年も離れた天体のことから超ミクロの世界の粒子のふるまいまでわかっています。これらは、かつて考えも及ばなかったようなものでしょう。「味」や「熱さ」といった身の回りの現象については完全に説明できるようになっています。
しかしここで、「そんなこと解明してどうするんだ?」という問いが浮かんできます。宇宙の果てのことや超ミクロのことがわかったからといって、何にもならないのではないか。より突き詰めていえば、「そんな事がわかっても、人が生きるということにとっては何の意味もないのではないか?」という問いです。
たしかに「味」や「熱さ」の科学的解釈を知ったとしても、人生が「豊か」になったりはしないでしょう。それらの現象の物理学による説明を知っていても、それはあくまで「知識」であって、「いかに生きたら良いのか」という「知恵」とはなり得ません。そしてこの生きるための「知恵」こそ、私たちの求めているもののような気がします。だから、「そんな事を突き詰めていったって何にもならないさ」と主張する人がいるのもわかります。
しかし、今一度最初の地震の話に立ち返ってみましょう。私たちはなぜ建物を造ったのでしょうか。なぜ道路を舗装したのでしょうか。なせガスや水道を通したのでしょうか。ちょっと考えてみましょう。
建物を造ったのは、より多くの人が入れるより丈夫な空間を造るためです。建物を造ることによって人は何十年も建て直しをすることなく風雨をしのぎ、また都市という人口の集中した地域を造ることによって分業化を進めることができます。
道路を舗装することによって車が通れるようになります。これにより場所を移動するのにかかる時間が少なくて済むようになります。また土ぼこりが立たないので衛生的にも良いと言うことができます。
ガスを通すことによって簡単に火を起こすことができるようになり。さらに火を様々な形で利用することができるようになります。例えば炊事、風呂、暖房などです。昔のようにいちいち乾いた木をこすったり、火打石を叩いたりしなくても済みます。
水道を通すことによって簡単にどこでも水を手に入れることができます。手を洗いたいときは洗面所で、湯を沸かしたいときはキッチンで、風呂を入れたいときは風呂場で、水を出すことができます。屋外の公園でのどをうるおす事だってできます。
こうして考えていくと、結局「文明」の目指したものとは「時間の節約」であると言えそうです。すなわち、住居を建て直す時間の節約、分業化することによる時間の節約、場所を移動する時間の節約、火を起こす時間の節約、水を手に入れる時間の節約・・・
これらは全て、科学の発展があったからこそ得ることができた恩恵です。科学の発展によって人は生活に追われなくなり、ほっと一息つく時間を手に入れることができたのです。科学は人に時間の余裕をもたらしました。そういう意味では、科学にも意義があるといえます。
しかしここでもう一度、科学について考え直そうと思います。
たしかに、科学は人に時間の余裕をもたらしました。しかしそれが即、人に豊かな生活をもたらしたかというと、そうでもないようです。社会人は仕事のストレスに苦しみ、学生は特に夢もなく受動的に学問を学んでいます。新聞にはすさんだニュースが並び、人々はマスコミの用意した流行を追いかけ、それに金を注ぎ込みます。たとえ空いた時間があっても、特にしたいこともなくダラダラとすごしてしてしまう・・・これは少し言いすぎかもしれません。しかし現代の現状を見る限り、人類が本当の「豊かさ」を手に入れたとは言えなさそうです。
これに関して私は、「科学の考え方の普及」が悪く働いてしまっていると考えます。それはなぜかといいますと・・・
かつては貴族の道楽であった科学の考え方は、今ではごく普通の人々にまである程度受け入れられるものとなっています。地球がまるい天体であることも、様々な物質が原子の集まりであることも、さらには過労やストレスといった生理学的なことも、常識となっています。かつては大反対された人は猿から進化したという説を、抵抗なく多くの人が受け入れています。味や熱ということにしても、それが特殊な形の分子の化学的な作用であることや空気分子の振動であることは、少し科学を知っている人なら誰でも知っていることです。
しかし科学は様々な現象を解明し飛躍的な技術の進歩をもたらしてきましたが、それと同時に迷信や宗教といったものを否定してきました。いまどき神の存在を信じている人はほとんどいないでしょう。「現代の起点」とされる1920年代アメリカにおいて、道徳律の崩壊を助けたのはフロイト心理学やダーウィンの進化論でした。このように、科学は古い価値観を根拠のないものとして破壊してきました。しかし破壊した価値観の代わりとなるものを提案することはしませんでした。科学は、古い価値観を否定することはしても、新しく価値観となるようなものを持っていなかったのです。かくして「現代人」は科学を手に入れるかわりに、生きる規範となる価値観を失ってしまいました。
「時間の余裕」と「価値観」という交換によって、科学は、一方の手で人に「豊かさ」を与えつつもう一方の手でそれを奪い返してしまったのです。
ここで「価値観」ということについて考えてみるために、一つ例を出します。
私は別の機会に、アフリカの一つの小数部族であるボディ族について調べたことがあります。エチオピア南西部のほとんど中央政府の立ち入らない奥地のサバンナに住んでいる部族です。
ボディ族の人々は、生活に関わる様々な事物に彼らのやり方で意味を込め、それを色によって表現します。自分自身が一生になう色、戦争を開始するときに行う儀礼に割り当てる色、結婚や葬儀の儀式に込める色、いろいろな農耕儀礼に割り当てられる色などです。
このような色に関わる生活文化を耳にしたとしても、私たちは「ふうん」と聞き流してしまうでしょう。「そんな人達もいるんだね」という風にです。しかし考えてみると、ボディ族の人達はこういったことを大真面目に、真剣にやっているのです。ちょっと考えてみてください。たとえ私たちに取っては意味のないばかばかしいことに思えても、彼らにとってはそれが意味ある現実のことなのです。彼らにとっての世界とは様々な儀礼を通して関わりあう対象であり、生涯担うある色・模様を自分のアイデンティティとして持っているのです。
現代を振り返ってみましょう。私たちは世界と関わろうとしているでしょうか?自分のアイデンティティーをしっかり持っているでしょうか?私達は文明によって物質的な豊かさを手に入れた代わりに、世界と関わることや自分のアイデンティティーを持つことをやめてしまったのではないでしょうか。
以上、長々と自分なりの「科学の功罪」について述べてきました。しかしこれはあくまで現状の認識にすぎません。この認識を踏まえた上で、「私たちは何をすべきなのか」。答はまだはるか遠くのような気がします(答があるのかどうかすらわかりません!)。
これはもう、「気長にがんばる」しかないですね。